เข้าสู่ระบบ顔をうずめて、理性を手放したように深く、何度も何度も息を吸い込む。
肺の奥まであの人の匂いで満たしてしまえば、震える指先が少しだけ落ち着くような気がしたからだ。 まるで、すぐ隣にあの人がいて、その大きな身体で守られているような錯覚。けれど、ふと顔を上げた瞬間に襲ってくる現実は、あまりにも静かで冷たい。「……変だよ、私……ほんとに、おかしい」 自分が自分でなくなっていく感覚が怖くて、枕に額を押し付けたままかぶりを振る。 あんなに酷いことをされたはずだった。 お金で買われて、自由を取り上げられて、意地悪な言葉で心をかき乱されて。 憎んでもいい。逃げ出したいと願うのが普通だ。 それなのに、どうして今、胸がちぎれそうなほど寂しいのだろう。 認めたくなかったけれど、身体は正直だった。 私はもう、一人では夜の闇さえ越えられないほど、弱くなってしまったのかもしれない。あの人という熱がないと、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。「……会いたい」 考えたわけじゃない。唇が勝手に動いて、熱を持った吐息と一緒に本音がこぼれ落ちた。 一度口にしてしまうと、もう止めどめがなかった。堰を切ったように、抑え込んでいた感情があふれ出してくる。「会いたいよ……征也くん……」 社長でもなく、ご主人様でもない。 ずっと昔の呼び方。 私が密かに憧れて、けれど私のせいで傷つけてしまった、あの人の名前。「寂しい……早く帰ってきて……っ」 誰もいない寝室は、恐ろしいほど広く感じられた。 私は征也くんの残り香が染み付いた枕を、命綱にでもすがるようにぎゅっと抱きしめる。子供みたいに声を上げて泣くなんて、いつぶりだろうか。 窓の外では風が唸っている。 広い屋敷のどこかで、ガタ、と窓ガラスが揺れる硬質な音が響いた。 その乾いた物音が、隣に誰もいな「……そうだね。今はまだ、怖いよね。ゆっくり休むといい」 彼は手を引っ込め、再び前を向く。私は小さく息を吐いた。なぜ、こんなに拒絶してしまうのだろう。彼は幼馴染で、私を助けてくれた恩人のはずなのに。 触れられそうになった瞬間、生理的な警鐘が鳴り響く。『違う』と。『その手じゃない』と、身体中の細胞が叫ぶのだ。私の肌が覚えているのは、もっとゴツゴツとした、節くれだった指。乱暴で、痛いくらいの強さで、でも触れるたびに所有の証を刻み込んでくるような、あの熱い手だけだ。(……征也くん) 心の中で名前を呼ぶだけで、胸が張り裂けそうになる。今頃、彼はどうしているだろうか。病院で私が消えたことを知って、激昂しているだろうか。それとも、私の裏切りに愛想を尽かして、冷笑しているだろうか。『追跡しろ』 そんな声が聞こえた気がした。彼は絶対に私を諦めない。地の果てまで追ってくる。その確信が、恐怖であり、同時にどうしようもない救いのように思えてしまう自分が、死ぬほど情けなかった。 ◇ 車は高速道路を降り、曲がりくねった山道へと入っていった。木々の緑が濃くなり、対向車もまばらになる。人家の明かりなどとうに消え失せ、窓の外に広がるのは、深海のような深い森の闇だけだ。「……ねえ、蒼くん。まだ着かないの」 募る不安に耐えかねて尋ねる。時間を確認しようと、ポケットに手を入れた。「あ」「どうしたの?」「スマホが……ない」 ポケットの中は空っぽだった。バッグの中を探っても、どこにもない。病院から逃げる時は確かに持っていたはずだ。蒼くんからの指示を受け取ったのも、あの端末だったのだから。「ああ、それなら僕が預かっているよ」 蒼くんは何でもないことのようにさらりと言った。「え……?」「さっき、君が眠っている間に回収させてもらった。……ほら、天道に見つかるといけないからね。GPSで
グレーのワンボックスカーは、都心の喧騒を置き去りにしてひたすら走り続けていた。窓の外を流れる景色は、無機質なビルの群れから、やがてまばらな住宅街へ、そして鬱蒼とした緑の壁へと移り変わっていく。 タイヤがアスファルトを噛む単調な走行音と、微かなエンジンの振動だけが、車内の重たい沈黙を埋めていた。「……蒼くん、どこへ向かっているの」 何度目かの問いかけに、隣に座る神宮寺蒼は、穏やかな笑みを私に向けた。銀縁眼鏡の奥で細められた目は優しげで、怒っている様子も、焦っている様子もない。まるで、天気のいい休日にドライブへでも出かけているような、拍子抜けするほど軽い調子だ。「少し遠くだよ。……天道の手が届かない場所まで行かないと、君を守れないからね」「でも、お母さんは……? 別の車で移動しているって言ってたけど、合流できるの」「大丈夫。スタッフが万全の体制で搬送してるよ。到着したらすぐに会えるさ」 蒼くんの声は、滑らかで心地いい。けれど、なぜだろう。その言葉を聞くたびに、胸の奥に冷たい澱が沈殿していくような、ざらりとした違和感を拭えない。「大丈夫」「安心しろ」。それは、かつて征也が私に向けていた言葉と同じだ。けれど、征也の言葉には、私の不安を力ずくでねじ伏せるような圧倒的な熱量と、何があっても責任を取るという覚悟のような重みがあった。 対して、蒼くんの言葉は軽すぎる。綺麗にラッピングされた空箱のように、中身の温度が感じられない。(……比べてる) 私は膝の上で、スカートの生地をぎゅっと握りしめた。逃げ出してきたくせに。父の仇だと知って拒絶したくせに。私の身体はまだ、天道征也という男の強烈な引力圏から抜け出せずにいた。 空調の効いた車内は適温に保たれているはずなのに、肌寒くて仕方がない。二の腕をさすると、鳥肌が立っているのが分かる。征也の腕の中にいた時は、息苦しくなるほど暑かったのに。 あの、ムスクと煙草の混じった匂い。火傷しそうな体温。私を閉じ込め、窒息させんばかりに抱きしめる力強さ。それらが欠落したこの空間は、
私は彼の手を掴み、車内へと飛び込んだ。「出して!」 蒼くんが運転席に向かって叫ぶと、車はタイヤを激しく軋ませて急発進した。 ゲートを強引に突破し、地上へ出る。 背後で、病院の騒ぎが遠ざかっていく。 私はシートに深々と沈み込み、肩で息をした。 手足の震えが止まらない。 やってしまった。 本当に、逃げ出してしまった。「……怖かっただろう。もう大丈夫だよ」 蒼くんが、震える私の肩を優しく抱き寄せた。 ふわりと鼻をかすめる、清潔な石鹸の香り。 でも、なぜだろう。 その温もりに触れた瞬間、私の身体は石のように強張り、本能的な拒絶反応を示していた。 違う。 征也の、あの荒々しい熱とは違う。 煙草と微かな香水、そして男臭い体温。あの圧倒的な質量を感じさせる匂いがここにはない。 この優しさは、どこか薄っぺらで、温度のない作り物めいた感触がする。「ありがとう、蒼くん……。でも、お母さんは……?」「安心して。僕の息のかかったスタッフが、混乱に乗じて連れ出す手はずになってる。……君のお母さんも一緒に、誰も知らない安全な場所へ移そう」「本当? よかった……」 安堵で視界が滲む。 これで、やっと自由になれる。 征也の理不尽な支配から、あの冷たい屋敷から、解放されるんだ。 そう思った瞬間。 胸の奥を鋭利な刃物で抉られるような、激しい痛みが走った。 まるで、心臓の半分をあの屋敷に置いてきてしまったような、耐え難い喪失感。(さよなら、征也くん……) 車窓を流れる街の景色を見つめながら、私は心の中で別れを告げた。 憎んでいたけれど、誰よりも愛していた。 そのどうしようもない矛盾した想いごと、私は今日、すべてを捨てる。 ◇ 病院の地下駐車場の片
蒼くんだ。 見慣れた文字の並びに、背筋が寒くなるほどの覚悟を感じる。 彼は、強硬手段に出るつもりだ。 火災報知器なんて、そんな大ごとにして大丈夫なの? でも、この鉄壁の監視網を抜けるには、これしか好機はないのかもしれない。 私は紙切れをくしゃりと握りつぶし、勢いよく立ち上がった。「そろそろ、戻ります」 SPたちに告げ、エレベーターホールへ向かう。 一階へ降りるボタンを押す指先が、小刻みに震えているのが分かった。 自分の心臓の音がうるさい。 征也の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。 今朝見た、あのボロボロに傷ついた背中。 私が逃げたら、彼はどうなってしまうのだろう。 本当に壊れてしまうのではないか。(……同情しちゃだめ。彼は、お父様を陥れた仇なのよ) 唇を血が滲むほど強く噛み締め、迷いを断ち切る。 チン、と軽い音がしてエレベーターが一階に到着した。 扉が左右に開く。 その瞬間。 ジリリリリリリリリリ!!! 耳をつんざくような暴力的なベルの音が、ロビー中に鳴り響いた。 悲鳴、怒号、ざわめき。 平和だったロビーが一瞬で戦場のように変わる。人々がパニックになり、出口へと殺到する。「なっ、火災か!?」「奥様、こちらへ! 避難誘導します!」 SPたちが太い腕を伸ばし、私を掴もうとする。 今だ。「きゃっ!」 私はわざとらしく誰かにぶつかったふりをして、逃げ惑う人混みの中へと倒れ込んだ。 SPの手が空を切る。 人の波が、私と彼らを物理的に分断した。「奥様! どこですか!」 彼らの野太い叫び声を背に、私は非常口の緑色のランプを目指して走った。 重い扉を押し開け、階段を駆け下りる。 一段飛ばしで降りていくたびに、足への衝撃が脳を揺らす。 地下一階、地下二階。 息が切れ、肺が焼けるように熱い。足がもつれて転びそうになる。
◇ 病院の特別個室があるフロアは、異様な空気に包まれていた。 消毒液のツンとする匂いと、張り詰めた緊張感。 病室の前には、岩のように屈強な黒服の男たちが二人。 エレベーターホールにも二人。 征也の言葉に嘘はなかった。これでは、蟻一匹逃げ出すことなどできそうにない。 母との面会時間は、砂時計の砂が落ちるようにあっという間に過ぎ去った。 眠る母の痩せた手を握りしめ、心の中で謝罪を繰り返す。 ――ごめんなさい、お母様。私、行かなくちゃいけないの。 病室を出て、重い足取りで廊下を歩く。 ポケットの中で握りしめたスマートフォンが、微かに震えた気がした。 蒼くんからは『中庭で待っている』とメッセージが入っていた。 でも、どうやって? 背後には、私の影を踏むような距離でSPが付き従っている。 息が詰まる。「あの……少し、風に当たりたいんですけど」 私は立ち止まり、振り返ってSPに声をかけた。「屋上庭園へ行ってもいいですか」 SPたちは顔を見合わせ、インカムで短く言葉を交わした後、能面のような無表情で頷いた。「承知いたしました。ご案内します」 許可が出た。 屋上ならば袋小路だ。逃げ場がないから安心だと判断したのだろう。 私は彼らに挟まれるようにして、エレベーターの箱に閉じ込められた。 屋上庭園は、患者たちの憩いの場として開放されている場所だ。 手入れされた花壇には季節外れの花が揺れ、自動販売機のモーター音が低く唸っている。 平日の中途半端な時間帯、人影はまばらで、風の音だけが耳につく。 私はベンチに腰を下ろし、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。 冷たい風が、火照った頬を撫でていく。 SPたちは少し離れた場所で、鷹のような目で周囲を警戒していた。 この距離なら、囁き声までは届かないはずだ。 その時。 植え込みの陰から、白衣を纏った男性が現れた。 医師の格好をしている。大き
◇ 翌日。 重く垂れ込めた雲の隙間から、色のない光が差し込んでいた。 雨は止んでいたけれど、湿気を帯びた空気は肌にまとわりつくようで、屋敷全体が巨大な水槽の底に沈んでいるような息苦しさがある。 私は身支度を整え、足音を忍ばせて玄関ホールへと降りた。 姿見の前で立ち止まり、ひきつった自分の顔を見つめる。 睡眠不足で透き通るほど青ざめた肌も、丹念にメイクを重ねれば、平気なふりができる。嘘をつくための仮面だ。 鏡の中の自分が、無意識のうちに首元へと指を這わせていた。 鎖骨のくぼみに、硬質な重みが鎮座している。 大粒のサファイア。彼が私に与えた首輪であり、逃げ場のない所有の証。 この屋敷を出るのなら、置いていくのが筋だと分かっている。 けれど、留め具に爪を掛けようとした指先が、凍りついたように動かない。 最初は氷のように冷たかった石が、私の体温を吸い取り、まるで皮膚の一部になったかのように生温かく脈打っている。(……どうして) 頭では拒絶しているはずなのに、この重みがないと不安でたまらない自分がいる。 胸の奥がざわざわと波立つ。私は逃げるように鏡から視線を外し、スカーフをきつく巻き直した。 外すことはできなかった。せめて誰の目にも触れぬよう、深い場所に封じ込める。「……出かけるのか」 背後から低い声が鼓膜を震わせ、心臓が口から飛び出そうになった。 ゆっくりと振り返る。 階段の踊り場に、天道征也が立っていた。 いつもなら針金一本通さないほど完璧に着こなしているスーツ姿ではない。昨夜と同じシャツは深く皺が刻まれ、胸元のボタンは乱暴に外されている。整えられた髪もかき乱され、数本が額に落ちていた。 漂ってくるのは、強いアルコールの匂い。 彼は一睡もしていないのだろうか。その瞳は血走って濁り、どこか焦点が合っていないように見える。「……はい。今日はお母様のお見舞いに行く日ですので」 喉の震えを飲







